-- 小倉代表の追悼寄稿を拝読して --
本科 B 齊藤正美
諸先輩方の追悼文、小倉代表との素敵な写真、思い出などを拝見して感動いたしました。 小倉代表も、さぞかし天国で、嬉しく思っておられることでしょう。
改めて、シニア会の素晴らしい歴史と、絆を感じています。 このような会に、参加できていることが本当に有り難く、目頭が熱くなる思いです。
皆様のご健康と共に、一日も早くコロナウィルスが収まり、シニア会が再開されることを、心から願っています。
専科 林良介
私自身、シニア会在籍丸三年の新参者にて、小倉代表と直接お会いした事も薫陶をお受けした事もありませんが、たまに諸先輩から、「ゼロからダンスの集いから行事まで立ち上げられたすごい方」「鶴のひと声で..云々」「怖かった・・」などなどのお話を漏れ伺うにつけ、一体どのようなリーダーでいらしたのだろう、と思いを巡らせる事がございました。
そのような中で、今回、小平シニア会ホームページ上で、小倉代表と深いつながりを持たれていらした方々からの追悼寄稿を拝読し、その一端に触れる事が出来ました。 「そこにいらっしゃるだけで背筋が伸びる」「時に独裁者ぶりを発揮される事も」といった厳しさの反面、海外旅行まで御一緒される親しみ易さ、全面的にやり方を相手に任す度量の大きさ、後半生の師とも仰がれる懐の深い人間性を併せてお持ちの創設者でいらしたのだと、認識を新たに致しました。
強烈なカリスマ創業者や中興の祖の存在が、その団体組織の社風・校風或いは会の雰囲気といったものに大きな影響を残すことは、誰しもが見聞き、体験されてきた事と存じます。 小平シニア会のメンバーは、それぞれ年齢や性格も、歩んで来た体験・境遇なども千差万別にも関わらず、三十年以上に亘り、レッスンや節々の行事・催事等で営々と良いまとまり感をもって続けられて来たのも、その時その時のリーダー、先達の皆様のご尽力に加え、カリスマたる小倉代表の強力な初期骨組づくりと方向付けによる影響が大きかったのだと感じ入った次第です。
なお、ダンス自粛も早三か月を迎えようとしておりますが、詰め込んだダンスの記憶は、コロナ感染者数グラフと同じ弧を描き低下しつつあります。
ダンス再開後は改めて気を引き締めて参りますので、諸先輩、ご同輩におかれましては、どうぞ当分ご寛容の目でご覧下さいますようお願い申し上げます。
初等科 T.I
私は、この追悼特集が出るまで、全く小倉代表のことを存じ上げませんでした。 会長の上に、更に代表がいらっしゃって、その方が創設者であったとは驚きでした。 35年もの長きにわたって大きな組織をまとめ上げるなど、並大抵の人物でできることではありません。 諸先輩方の追悼文を通して、皆様方の代表に対する熱い思いが切々と伝わってまいりました。 たぐい稀な人望を持った方であったとの思いを強く致しております。 このような素晴らしい方に率いて頂いて、長い歴史をもったシニア会を改めて誇りに思っている次第です。
令和2年5月20日 本科 岩村秀彦
“ところで下矢さん シニア会のレッスンはいつから再開するのでしょうね?“ 小倉代表と下矢前会長のお二人は、天国でこんな会話をされていることと思います。
小生岩村は、このお二人のもとで総務と本科Aをかれこれ十年ばかり担当致しました。 その間3回ばかり小倉代表の逆鱗に触れるような言動があり、危うくシニア会をクビになりかけましたが、そのたびに下矢前会長のとりなしでクビがつながり、その後も忙しい日々を過ごし退屈をしりませんでした。
台湾、チベット、ネパール、オーストラリアのケアンズなど毎年のように海外旅行にも同行させて頂きました。 ビールとお風呂をこよなく愛された小倉代表も天国で誰か良い飲み友達を見つけて(下矢前会長は下戸でしたので)心ゆくまでビールを堪能されていることでしょう。
献杯!!
令和2年5月15日 本科 桜井宣子
100年に一度あるかないかと言われているコロナ騒ぎで世界中のみんなが恐怖と不自由を強いられています。
その最中に小倉代表がお亡くなりになりました。 30期迄の方々は説明するまでもありませんが、代表がそこにいらっしゃるだけで会員の背筋がピンと伸びるほど緊張したものでした。
シニア会にお出かけになれなくなって4年余りになるでしょうか。 その間も「シニア会の事ばかり考えている。」とおっしゃっていました。 わが子の喜ぶ顔を見て喜ぶ父親のように慈愛に満ち、斬新なアイデアが次から次へとあふれ出る才能を持った魅力のある尊敬できる方でした。
私どもも高齢になってきましたが、社交ダンスによって、少し頭を使い、音楽に合わせて体を動かし、その上たくさんの友人と楽しいお喋りの時間を過ごすことができることは幸せなことです。 そうした年月が長くなればなる程、絆が深くなり、心身ともに健康に過ごすことができることは、本当に有難いことだと実感しております。
その素晴らしい会を作ってくださったのが小倉代表です。 その代表がお亡くなりになられた今、私どもはその精神を見失うことなく、これからも引き継いで行かなければならないと思っております。
令和2年5月13日 佐々木祐治
小倉代表の追悼特集を拝見しました。 拝見して小倉代表についていろいろ想い出がよみがえってきました。
小倉代表との想い出の中で特に印象に残っている2つのケースを紹介致します。
1つは2008年(平成20年)に創立23周年行事の企画を任された時のことです。 当時私は専科の音楽担当をしていました。まだ若輩者でしたから、先輩役員に相談しようと していたら、代表に「相談する必要はない、君に任せたのだから全て君のやり易いように企画して持ってこい。」と言われ、これならやり易いと思いましたね。要かなめで報告し、ほぼ企画通りに実施出来、良い思い出になりました。
2つ目は翌年の2009年(平成21年)の役員退任するときでした。サークル活動やボランティア活動で忙しくなり1年前から役員退任を下矢会長に申し出ていましたが、中々返事をもらえず、専科の消夏パーティの席上、代表の隣に席を取った時に思い切って話したら、下矢会長から話を聞いていたらしく即座に「分かった君の活動を一生懸命やりなさい、でもシニア会は辞めないんだろ。」と言われたので「もちろん辞めません、シニア会においてください。」と言って笑い合ったのが印象に残っております。
カリスマ性の強い代表でしたが、一面ユーモアとやさしさを併せ持った素晴らしい指導者でした。
小倉代表ありがとうございました。
令和2年5月10日 姉川銀枝
小倉代表が天国に召され、早や四十九日になろうとしています。
なにか想い出をとリクエストされたのですが、私の現状の心の動きからして、思い出を書こうとしても筆を持つ事ことさえ困難な状態です。 代表との思い出は、私の心が落ち着き次第、ぼちぼちと書いていきたいと思っております。
今回の追悼寄稿では、私の心に残っている代表の言葉の中で、今も私の生きる道しるべになっている言葉を皆様にお伝えしておきます。 それは、 私がシニア会の役員を拝命した折に頂いた言葉です。
「姉川 、これからは 人を思う心、反省の日々を忘れるな」
今でも心にとどめ生きております。
小倉代表は、私の後半の人生における、師でありました。
合掌 感謝!
令和2年5月8日 本科 伊藤邦子
小倉久康代表が亡くなられてから49日忌を迎えます。 シニア会創立者を知らない人も多くなり、早や伝説の人となってきました。 代表はどんなお人であったか、私自身が作り上げた代表評かもしれませんが、思い切って書かせていただきます。
私の知る代表は「カリスマ、孤高の人、稀有な人」でした。
逆らう者はなく、思うが儘にシニア会という大きな組織を指揮できたのはなぜでしょう。 発想の豊かさ、確かな指図、巧みな話術、ほとばしる会への愛と情熱・・等をみんなが認めていたからだと思います。 多少の反感や疑問があっても、代表に従っていれば間違いないという絶対の信頼感がありました。 一生懸命な人は尊敬されるのです。
「代表を喜ばせたい、代表に叱られたくない」というのがあの頃の雰囲気でした。
時に独裁者ぶりを発揮し、合わない者は非情に切るということもあったようですが、たぐい稀なリーダーシップで、シニア会という規律のある大きな会を作り上げました。 20年近くは、あふれる程の会員が集まり、それも若い年齢層が多いというシニア会の輝かしい時代でしたから、実に幸せな指導者であったとも言えます。 しかし頂上に居るということは、さぞ孤独な事だったのではないかと思います。 チャーミングな賢夫人がそばにいらっしゃったのがどんなに心強かったことでしょう。
怖さの反面、お人柄はとても優しく、親身に心配して下さる暖かい方でした。 旅行好きで知識も深く、私の先輩たちは日本の北から南までの各地を、時には外国まで旅をご一緒され、「代表さんのおかげ」と楽しい思い出を話されていました。 またお洒落な方で、羽織袴の素敵なお姿が忘れられません。
97歳、最後までシニア会に思いを馳せていらしたと伺いました。 感謝しかありません。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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